本尊地蔵菩薩は、延暦年中弘法大師が伊勢神宮にご参詣の折、諸人結縁のために30cm余りの地蔵尊を彫刻して畑の中の楠のもとに置かれた、と伝えられている。

 後代になって、永禄12年(1569年)織田信長が伊勢の国司北畠家と合戦した際、大阿坂村白米城の戦いで大宮入道の率いる北畠軍は敗れた。このとき北畠軍の一人の兵士が敗走してこの地に至り、地蔵尊に念じ楠のもとに必死の思いで身を隠した。追跡の軍が兵を探しにきたが発見できずにいたところ、そこには小さい僧がいて「落武者は東の方に逃げた」と告げたので、追っ手は指示の方に追行した。こうして、兵士は難を逃れ、この僧にお礼を述べようとしたがその姿はどこにも見当たらなかった。そこで、これはまさしく地蔵菩薩が姿を変えて自分をお救い下さったものと信じ、報恩のために自分のかぶっていた陣笠を地蔵尊にかぶせ、その上髪を切り僧侶の身となって一生涯この尊像に奉仕した。以後、陣笠をかぶせたことから笠の地蔵と呼ばれ、定紋も笠を用いるに至った。

 この笠の地蔵は、何でも願いを叶えて下さることで知られている。特に、笠の地蔵の笠は、できものや傷などが治るにしたがってできる《かさぶた》の《かさ》と音が通じるためか、この地蔵菩薩にはできものや傷を治すご利益があると信じられ、参詣者が多数訪れる。その願いが叶えられた時には、御礼に笠(現在では帽子)が奉納される。

      
      

地蔵菩薩の真言「オン・カカカ・ビサマエイ・ソワカ」
を称えて,笠の地蔵を変身させて下さい。

笠の地蔵

松阪の民話

所在地 松阪市石津町    本尊 石像地蔵菩薩